乳がんと闘う山田泉さん講演会「いのちの授業をもう一度」
虎井まさ衛氏は、幼少時より自分は男性であるとの性自認(Gender Identity)を持っており、大学卒業後、アメリカにて性同一性障害の診断を受け、アメリカで女性から男性に性転換された。
2004年に施行された「性同一性障害者特例法」の成立に深く関わり、同法により戸籍上も男性となった。そして今年、<差別と偏見をもたない人や環境を育成する教育事業>に乗り出そうと決意されて事務所「オフィス然nature」を立ち上げ。
その第一回企画講演として、乳がんの再々発で闘病生活をされつつ講演活動もされている山田泉さんを呼ばれたのである。テーマは、「いのちの授業をもう一度」。
夜7時からの講演には、大分から駆けつけている親衛隊(^^)、現在闘病中で医師とともに点滴チューブをつけてこられている方もいらっしゃった。
今年の5月、乳がんの転移が発覚し、「残された時間は好きなことをしなさい」と主治医に言われた山田さん。セカンドオピニオンとして東京の医師4人を訪れたが、「今どういう状況か分かっているのか。即入院しなさい」という医師と、「手術しても変わらない。後はあなたの人生観」という医師とに別れたという。
つまり、そういう状態の中、本日は実父の四十九日の法要を済ませ、東京に出てこられた…。
7年前、自分の胸にしこりを感じたとき、叔母が乳がんで亡くなっていたにもかかわらず、元気で明るい自分がまさかと、自分とがんを結びつけて考えなかったという。
しかし診断でがんと分かった日、1年後にこの世に自分がいないと思うと眠れず、思わず電話した相手に「泣きたいときは泣いたらいい」と言われ、夫の前で思いっきり泣けたのが救いになった。
当時小6だった娘が、「お母さん死ぬん?」とストレートに聞いてきて、思わず「すぐには死なん!」と答えた-これもよかったという。
校長も、「どんなに仕事ができても、死んでしまったらそこでお別れ。生きてほしい」
と、山田さんを闘病に送り出してくれた。帰るところができた。
「元気で帰ってくるからね」-山田さんは保健室のホワイトボードにそう書いて学校を出た。
また、知らないから怖い、調べたらいい、とアドバイスを受け、すぐに50冊ほど購入。
思いっきり泣き、夫に支えられ、子どもに決意を告げ、帰るところができ、事実を直視する―こうして様々なサポートがあって、山田さんは危機を脱していかれた。
2年後、職場復帰したとき-
「待っちょったで。わしゃ異動せんで待っちょったで。」と、校長が出迎えてくれた。
そして…なんと、ホワイトボードの文字がそのまま残っていた。2年もの間、待っていたのだ。
生徒に聞けば、先輩が絶対消すな、と言い残して卒業していったのだという。
泣けそうになった。
しかし、生徒達の心は荒れていた。
「ぶっ殺すぞ」「ガイジ(障害児の意)」-そういう言葉をぶつけ合っていた。
余命数ヶ月の人が、死にゆく人に対して何か自分にできることはないかと助け合う姿を見てこられた山田さんは、ここはもう自分のいるところではないと感じた。
ところが弱音を吐く山田さんに保健室に来た持病を抱えている女生徒が叫んだ。
「きちぃのは山ちゃんだけじゃねぇんで」「人の命も大事っちゅうことが分かる授業をしに来て!」
この生徒の一言から「命の授業」は始まった。
「ワシもやる。一緒にやろうや」と後押ししてくれたのは、現在肺がんで酸素ボンベをつけて闘病されている教頭先生だった。
いろいろな人を呼び、あるいはハンセン病の施設を訪ね、生の声を生徒達にぶつける。
生徒達は1ヶ月かけて、講師となる人や施設の勉強をして質問の準備をする。
そして、これは聞いてはいけないなどと言うおもんばかった質問ではなく、ストレートに直球が飛んでくる。
間違いは間違いということのできるホンモノの大人達。
大事なのはお金じゃない、と心から言える大人達。
命をかけて生きる大人達とのふれあいの中で、子どもたちは確実に変わっていく。
会場から質問があった。
「命と引き替えにそこまでする原動力はなんですか」
「命と引き替えにはしていません。楽しいからやっています。むしろ免疫力が賦活するのを期待して」
その通りだと思う。
「残された時間を好きに生きろ」ではない。
そもそも生まれた瞬間から後すべてが「残された時間」だ。
人生何かをするには、あまりにも短い。
好きなことを見いだすことができ、それを十分にできた人間が「幸せ」なのだ。
世間体や功利にとらわれず「好きなことをやれ!」-そう、子どもに言いたくなった。
ありがとうございました!