ハグする文化の逆説的意味
抱きしめることは、相手の存在を確かめる行為。
相手にとっては自分の存在を受け止めてもらって安心する行為である。
人は皆、自分の存在に不安がある。
「我思う故に我あり」などといったところで、その思う我が孤独であれば、存在不安は払拭されないだろう。
人は抱きしめることで相手の存在とぬくもりを実感し、
人は抱きしめられることで、ぬくもりに包まれて自分の存在の大切さを実感する
ハグがどれだけ人に安心感を与えるかがわかるだろう。
ところが…始終ハグしあっているのに、これほど不安定な社会はない−そう、アメリカだ。
なぜなのだろうか。
『子供の「脳」は肌にある』(光文社新書 山口創)という本に面白いことが書いてあった。
優しく穏和な民族であるイヌイット(エスキモー)は、生まれた赤ん坊をすぐにおんぶする。赤ちゃんの裸のお腹はお母さんの背中と直にくっついていて、母親は皮膚を通して赤ちゃんの欲求を直接知るため、イヌイットの赤ちゃんは殆ど泣くことがないらしい。この生まれてすぐのスキンシップが安定した社会を創り上げているという。
なるほど。
おんぶ紐が活躍していた時代の日本も、子供が笑顔の国だったように思う。
一方のアメリカ。
その根底にある個人主義に則り、子供は赤ん坊の頃から親と離れて寝かされている。
それが個人の不安を助長し社会不安を増大させているからこそ、不安を低減させるために、わざわざ「ハグ」を文化として社会の仕組みのなかに取り入れる必要があったのではないだろうか。
スキンシップという肌が触れあう安心感の上に
ハグという個の存在を確認する行為があるのだろう
と理屈をつけつつ、
「抱きしめないと会った気がしないんだ」と訳わかんないことを言いつつ(←でも実感)、
久しぶりに会った娘をハグするのでした…(^^;)








