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「たけしの日本教育白書2007」~(1)なぜ、日本人は大人になれなくなったのか?

2007/10/28(Sun) Category : 学校・教育・いじめ
「気がつけば情けないほど無責任な国になった日本」ということで、テーマは「責任」。

責任ある行動をとれる人になることが「大人」になるということだとすれば、“無責任な国”日本は壮大な「子供社会」ということになる。…社会にまみれていない子供の方がよほど冷静でまっすぐに人間を見ていることを知っている私は、このたとえ方がちょっとイヤなので、「自律できない大人」社会に変えよう。

「自律」とは、自分で自分の行動を選択できる=自分の行動の責任をとることができることだからだ。

自律していない大人は、自分がやっていることを「人のせい」にしながら行動している。長いものに巻かれながら流されている。だから、悪しき現実がなかなか変わっていかない。
そこに大人同士、そして大人と子供の間に不信感が生まれてくる。「自律できない大人」社会とは、人を信用できない相互不信の社会でもある。その諸相が番組に現れていた。以下は、そのメモ(■は番組のコーナーである)。




■1、モンスターペアレントvs学校

話をするときに目をそらす、事なかれ主義、世間体だけ気にするなど、教師への不信感を持つ親。
我が子中心主義で叱れないなど、親への不信感を持つ教師。
その対立の構図が描き出された。

その背景として、藤原校長は親が大人になりにくい社会構造、教育までもを消費財と考える社会状況を述べた。
たけしは、高学歴化した親が先生をなめる状況もあるのではと述べ、もっと年配者が小学校の先生をすればいいのではという意見を述べた。子どもと年配者は相性もいい。
また、大人になれない親の例として、ドラッグストアで商品を床に並べて遊んでいる子どもの母親は注意もせずに買い物を続行し、父親は「きれいに並べたね~」と褒めていた話が視聴者の投稿から紹介された。

なぜ、日本人は大人になれなくなったのか?
番組に即して見てみよう。





1)「機能」となった人間--------------------------------------

「一億層中流」といわれた時代、「最も成功した社会主義国」とまで言われた日本。アングロサクソン型資本主義の進展に伴い、全ての仕事が商品やサービスに落とし込まれ、人はその価値を提供する「記号」になっていった。働く意味が変化し、人が人から「機能」へと矮小化されていった。

つまり、人が日常的に「ディスカウント(価値を値引かれること、一人前と見なされないこと)」される状況になっている。人が尊厳を失う環境がそこにある。

また、商品やサービスを提供する側は、落ち度があってクレームをつけられると困るため、マニュアル化して行動を規格化した(最たるものはファーストフードの店員の対応だ)。つまり、ある機能として働くだけではなく、その機能までもが規格化されたのだ。今や商品経済の中で相対しているのは人ではなく、機能と化した役割ロボットだ。

文科省も教育という機能の提供者に成り下がり、教師をコントロールしてロボット化している。『話をするときに目をそらす、事なかれ主義、世間体だけ気にする』ようになるのも当然である。





2)「商品」となった教育-------------------------------------

商品やサービスを「消費」する側は、「ともかく一言言ってみる」というのりだった。まぁ、少数派だとは思うけれど、教育を“購入”する側とすれば、少しでも欠陥があればクレームをつけるという商品感覚なのだろう。

そこに上記逃げの姿勢が拍車をかける。心理学的に言えば、2者関係は、「ぶつかる(→←)」「離れる(←→)」「逃げ追いかける(←←)」の3つのいずれかになりやすい。相手に逃げの姿勢が見えれば、本能的に(?)追いかける(←←)。

本来ならば、先生も親もともに子を見守り育てるのが役割だ。というよりも、子供を見守り育てるのが大人社会の機能たるものであろう。つまり、子供を育てるという共通目標に向かって手を携えていく(↑↑)のが、ホンモノのパートナーシップだ。

共通目標に向かって手を携えていく(↑↑)のは、とても高度な連携を必要とする。抽象的目標を共有すること自体が高い人間的能力を要求することなのだ。残念ながら、自分のことだけで精一杯の今の大人には、この能力が欠けてしまっている。





3)境界がなくなった「公私」----------------------------------

社会全体に公私の別がなくなっている。便利になる、裕福になるということが私的なことを外で楽しむ方向に動いた結果の一つだろう。

音楽を外に持ち出せるようになった(ウォークマン)。
電話も持ち運べるようになった(携帯)。
テレビまで外に持ち出せるようになった(ワンセグ)。

公的空間に私的な空間を持ち込むことが、あたかも先進的に捉えられているのかもしれない。その際たるものが自動車だが…。その感覚が、外でものを食べたり、化粧をしたり、という行動に違和感をなくさせているのだろう。

それを奨励しているのは、GNP第一主義の経済最優先社会である。その社会が公的な空間をどんどん私物化していった。資本主義そのものが私物化を推進しているのだから致し方ない。その突出した形が、ドラッグストアの商品のオモチャ化、否ドラッグストア(公的空間)のリビング化であろう。





4)反発を覚える「指図」--------------------------------------

最後に、外に出る度に私もうんざりしている手取り足取りの指図環境。
番組でも紹介されていたが、看板、アナウンス等々、あらゆる場所で日本人は指図され続けている。言い換えれば、“子ども扱い”され続けている。これではいつまでたっても大人になれるはずもない。

指図されると人は反発を覚える。
例えば、あなたが今勉強に取りかかろうと思ったとしよう。その寸前に親から「勉強しなさい!」と言われたとする。やる気になりますか?
なるはずがない。なぜなら、親に言われてしまった後でやることは、親の敷いたレールの上をただ歩くことになってしまうからだ。つまり、自分のためではなく親のためにやることにすり替わってしまうのだ。だから、一挙にやる気が失せてしまう。

これが本当に自分がやりたいことだった場合のことを想像してみるとよい。それを、先に親に言われてしまったときの地団駄踏みたくなる悔しさ。やりたいのに、それをやることは親の操り人形になってしまうかのようなジレンマ。えもいわれぬ憤りと悔しさが湧いてくるだろう。

町中に氾濫する看板やアナウンスは、これと似たような反発心を人に与えているのではないだろうか。

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