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「たけしの日本教育白書2007」~(3)大人を信用していない子どもたち

2007/10/30(Tue) Category : 学校・教育・いじめ
番組で最も心が痛んだのが、子どもたちの発言。

【親】
『深刻なことを親に話すと大変なことになる』
『学校に怒鳴り込んだりして大騒ぎになる』
『大げさになる』

【先生】
『先生は親に腰が低いくせに、子供には高圧的』
『プライドが高く謝らない』
『ターゲットを決めていじめる』
『すぐに話し合いとか大げさになる』

【友人】
『友人はその場限り』
『いつも一緒にいるのが窮屈』
『合わなければ、友人関係がなかったことにする』


何が辛いかって、この背景となる現状が見えてくるから。そして、その現実を当たり前のこととして生きているため、辛さを辛さとも思わず屈託なく話しているその表情-見ていてそれが辛かった。





ここに見えてくるのは、子どもたちの気持ちを受け止めずに何か働きかけようと(Doing)する大人達の姿。なぜ、Doingしようとするのか。

1,やったことが評価につながり、やらなければ責められるから(アリバイ作り)
2,押さえ込みため込んでいる感情を吐き出すきっかけ
3,ストローク飢餓に突き動かされたゲーム(飢えを満たすため)

1は、何かをする、対策をとることが大人の役割と大きな勘違いをしていることが背景にある。
2は、自分に正義や大義があると思ったときに、ここぞとばかりに日頃の鬱憤を吐き出してしまおうとする無意識の行為。昨今の「キレる大人」もここ。
3は、ちょっと説明しよう(↓)。



【カープマンの三角形のドラマ】-------------------

自分の存在に不安を持つ人たちは、常に自分の存在を自覚できる出来事を欲している(ストローク飢餓)。最も介入しやすいのは、自分が「救援者」として登場するとき。それに救援者としての自分には、存在価値を感じることができる。

しかし、「救援者」として登場するためには、「加害者」と「被害者」がいなければならない。そこに、学校という「加害者」と我が子という「被害者」が現れたとする。すると、すわ出番とばかりに「救援者」として学校に怒鳴り込むのだ。

結局それは子供のためを思っての行動ではなく、親が自分の存在を確認するための行動-つまり、自分のためにやっている行為だ。
子供から見ると、僕のことにかこつけて自分のストローク飢餓を癒さないでよ、ということになる。その場限りで解決につながることはなく、大きな迷惑なのである。

また、救援者が現れることによって、逆に「加害者」と「被害者」が明確に切り分けられることになる。「白黒」「善悪」「敵味方」をハッキリさせなければ「救援」できなから、無理にでもレッテルを貼って決めつけたがる。
だから、救援者が入ることによって、事実は強引にねじ曲げられたり、妙にこじれたり…決めつけから解決は生まれない。が、しかし、救援者にとって解決などどうでもいいことなのである。

このように、自分の出番を作るために救援者が仕掛けるゲームを「三角形ドラマ」(カープマンの三角形のドラマ)という。

たとえば、少年Aの母親はこのゲームを繰り返し続けていた。
その母親の背後で、少年Aは、自分の存在を「透明な存在」と呼ぶほどのストローク飢餓(餓鬼)となっていった。なぜなら、母親は決して少年Aの気持ちを聴こうとせず、心理的ネグレクトの状況に置いていたからだ。
母親は子供のために行動(Doing)しているつもりで、本質は自分のため。その影で子どもたちの心は放置(育児放棄)されているのだ。


----------------------------------------------
子供に関わろとする背景に上記に挙げた3つの理由のいずれかがあるのであれば、子どもたちが敬遠するのも当たり前である。子どもたちはそれを“大げさに”とか“大騒ぎに”という言葉で表現している。

子どもたちがしてほしいのは、大人に動いてもらうことではなく、大人に聴いてもらうことである。自分の気持ちを聴いてもらうこと=自分を受け止めてもらうこと。そこからしか、信頼関係は芽生えないから、大人と子供の間に信頼関係が芽生えるはずもない。





さて、自分の気持ちを吐き出すことができずに一杯一杯だと人との関係が煩わしくなる。
なぜって?
人は「感情」を持っているから。

自分の心のコップが自分の気持ちで一杯なので人の気持ちを受け入れる余裕がない。だから、人と付き合うのがおっくうになってくるのだ。だから友人関係さえ作りにくくなっている。
その上、一杯一杯の感情ははけ口を常に求めているから、いじめが陰湿化してくる。子供同士が敵同士になってしまう。





さぁ、俯瞰してみましょう。
1,文科省は学校にあれやこれやと押しつけるばかり。
2,お上からのストレスで一杯一杯の校長は、教師を守ろうともせず「自己責任」を押しつけるか、無管理でハラスメント教師をのさばらせる。
3,教師同士は横の連携もとれないほどに、“やるべきこと”に追われまくって一杯一杯。
4,そのはけ口が子供に行く。…そして、大人達から押しつけられる一方の子どもたちも一杯一杯で友達を作ることさえままならない。
5,最終的に行き場のない感情は弱いものいじめに向かう

どうでしょう。
いじめをこれほどまでにはびこらせたのは、「いじめゼロ」を掲げるお上じゃないの?



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職員室

理屈っぽいいけ好かない小僧やったので職員室→校長室ちうパターンが多く、職員室に居る時間が長いと、新任教員がお局様のお茶くみしてるなんてのを冷めた目でみてきた。校長室によってはおとなし目の生徒に人気になりそな可愛い女性教員を連れ込んでやりたい放題しとったようで、私の件を校長にするのが立ち消えになって助かった事が何度もある。連れ込まれるのは新人のおとなし目な女性教員。時々連れ込まれる教員がかなしげな顔するのて、おらが、一切指導を聞かない事にしてつれてけというて乗り込んだ経験ある。校長は勤務評定をネタに新人教員を弄んでいたようだった。おらは先生は可哀想に思ったがダッシュで、反校長側の他学年の学年主任を今の校長室をノックしないであけると面白いモノ見られからと呼びに行った。主任先生は突っ込まれる前にたすかり、校長は翌月末に転任した教員も大変なんだよ

 

お~素晴らしい!!

じゅんさん、よく自分で気づかれましたね。それだけでなく、自分を変えていけましたね。
すごいと思います。
これからが楽しみですね~♪(^^)


 

謎が解けてよかったですね

それにしても、動いてしまう親は八方塞がりに子供を追いつめてしまいますね…。

 

「救援者」のこと

「救援者」の話、とても興味深いです。

というのも、私自身と私の父親との関係、そして私自身と私の子供達の関係で、その偽りの「救援者」がいたからです。でも、それに気付くまでは、私の父親も、私も、そして家族もみんな、その偽りの「救援者」は良い人なんだと思っていた。そこが怖いところでした。でも、何か変だな、上手くいかないなと気がついてみると、いつも親(私の父親、又は私)が家族の中で「救援者」というの名のもとに、子供を通して主役になろうとしていたことでした。気がついた時はショックでうろたえましましたが、心をしっかりと整理する時間を持ち(中尾さんが言う、棚卸しですね)、それを少しずつ整理していきました。その期間は、言葉で表すことの出来ない位つらい時期でした。

私自身の場合は、自分の子供達との関係で「それは、こうやってやるんだ」とか「一番いい方法は。。。」という感じで、どんどん押し付ける(doing)ような感じになっていましたね。でも、じっくりと腰を落ち着けて考えてみると、それは過去の自分が正しいということを(自分自身を肯定するために)自分の子供達を使って試そうとしているんだなと気がつくことができました。そうしてみると、自分自身の父親も自分と同じであること(中尾さんが言う、連鎖ですね)に気がつきました。ということで、大家族の心の手術という感じのことをやってみました。家族にメスと入れるのは怖かったですが、やはり間違っていると気がついたときは、理屈ではなくて、勢いというか力技で一気にやってしまうのがいいだろうと思ってイチかバチかやってみたんです。

そのことに気がついてからは、会社でも、これは自分のアディアだとか、自分が一番始めに気がついた事だとか、自分の方が相手より良く理解しているんだとか、そういう脅迫的な競争をしなくなって、部下からの評判も良くなりました。知識や知恵は争うものではなくて、共有するものだとという気持ちになりました。そして、前より沢山の人達が寄ってくるようになり、仕事も上手く行くようになりました。家庭で子供達の主体性をしっかり見つめるように、会社でも部署の人達の主体性を認めるようにして、助けが必要あれば上司としてスクランブル発進するというかたちを徹底したからだと思います。よく「究極の上司というのは、そこにいるだけで仕事が進む人のこと」と言われますが、それは、中尾さんがよく言っているbeingをしっかりやっている上司の元では仕事も生き生きと出来て進むということなんだと思います。会社の上の人には、それ以来「器がデカクなった」という表現で誉めてもらっていますが、beingがしっかり出来ると、そうなるのだと思います。今では、人事の方主催のセミナーも年に数回頼まれていて、会社でも良い感じで受け止めてもらっているようです。そういう場では、一人の企業人としてでなく、一人の人間として話すようにしてます。

最近良く使われる「未来の子供達のために」とか「恵まれない国の人達のために」とか、そういう言葉を使っている人達の中にも、その偽りの「救援者」がいるのではないかと思うことがあります。当事者達の立場に立ってやっているというよりは、自分の評判を上げることを目的としている人達が沢山いると思います。先日、そういう活動をしている人が偶然にも知人の知人ということで、食事をする機会があったのですが、その間、ずっと「何々新聞に取り上げられた」とか「何々テレビに取材された」とか、自慢話っぽいことが話の大半をしめていました。この人は、自分の価値を確かめるべく「救援者」をしているのであって、本当に相手を助けるためにやっているのではないだろうなと思いました。マザーテレサがノーベル賞をとったときの晩餐会で「カルカッタにいる人達のことを考えると、こんな贅沢な食事は出来ない」と言ったそうです。そして、まるで怖い物でも見るかのように料理を遠ざけて何も口にしなかったという話を聞いたことがありますが、真の人助けをするとなると、マーザーテレサのような気持ちになるのでしょうか。この話を聞いたときに、こんな気持ちになれる人は、なかなかいないだろうなと思いました。少なくとも、私なら、腹一杯食べて飲んでしまうと思いました。

中尾さんが最近ブログで書いていたように、人間というのは健全であるとか健全でありたいという気持ちをどこかに持っていて、いつも人の役に立ちたいとか、社会の役に立ちたいという気持ちを持っているんだと思います。一人で、旨いものを食べて、大きな奇麗な家に住んで、奇麗な景色を見て、うまい酒を飲んで、奇麗な寝室で寝る事ができても、人間は幸せにはなれないです。というか、つまらないです。やはり、人のためとか社会のために何かをしたいというのが、人間のどこかにあるのだと思います。その気持ちをストレートに出せる場合は気持ち良く生きれるし、その人は静かに認められ始めて、そして輝くのだと思います。でも輝きたいがために、輝くことが目標になってしまって、「救援者」を装って偽りの救済をして、自分の価値を高めようという人達が、家庭や友人関係のレベルでも、もっと大きな社会レベルでも多くなってきたような気がします。これでは本末転倒ですね。私自身も、そのうちの一人でした。私自身、そのことに気がつくことが出来て方向転換することが出来たので、少しずつですが、家庭でも社会でも、本当の意味での人助けが出来ればいいなと思っています。もちろん、必要な場合には逆に助けてもらいながら。。。

 
    
 
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